「この世のあらゆる苦痛から解放され、自分の人生をより良いものにする方法があるんですよ。」

 

と言われたら、その方法を今すぐに知りたいと思いませんか?

 

 

しかもそれがたった500円、つまりワンコインで入手することができるのだとしたら。

 

 

NHK出版「100de名著 維摩経(ゆいまきょう)」という本が、私たちに「幸せを運んで来てくれるものの正体」です。

 

維摩経って知っていますか?

仏教を詳しく勉強したことがある人なら知っていると思いますが、普通の人は聞いたことがない書籍だと思います。

維摩経(ゆいまきょう)というのは、釈迦の教えを説いた「お経」です。

お経というと、お葬式や法事の時に、お坊さんが唱える「極楽浄土」に行くための呪文のように思っている人がいますが、お経とは本来「釈迦が説いた教えを書きとどめた書物」のことを指します。

「維摩経」の維摩(ゆいま)というのは、人の名前です。

ですから、「維摩経」というのは、維摩という人物を中心に展開される、仏教の有り難いお話なのです。

維摩ってだれ?

さて、ここで維摩経について疑問を持った人もいるでしょう。

「お経とは釈迦の教えや仏教教義を説いたものなのに、どうして「維摩」が主人公なの?」と。

こうした疑問が頭に浮かんだ人は、かなり鋭い思考を持った人ですね。

ここで、維摩経に出てくる維摩とこの本のあらすじについて少し説明していきましょう。

維摩(ゆいま)というのは、古代インドに実在した知識人のひとりだとされていています。

 

維摩居士(ゆいまこじ)

ウィキペディアより

 

維摩は仏教への熱い信仰心を持っていましたが、出家者ではなく、在家(ざいけ)のお坊さんでした。

出家とは、家族や世俗への未練を一切すてて、完全に仏道に入ることをいいます。

その反対に、在家とは妻子を持ち、俗世に暮らしながらも釈迦の教えに従って、悟りの境地を目指す人をいいます。

 

維摩は、奥さんと子供がいて、持ち家もありました。また、お酒を飲んだり、博打を打ったり、たまに花街にも出かけていたそうです。

まさに、「飲む・打つ・買う」を普段から率先して実践していた人でした。

 

そんな維摩は、人間は本来の姿のまま振る舞い、煩悩を感じるままに生きることで、執着やこだわりから解放される…という、逆説的な考えを説きます。

 

維摩が発するひとつ、ひとつの言葉は、「真理に背くようでいながら、実際には真理をついている」のです。

 

維摩は大変頭の切れる人であったため、俗世という煩悩世界に身を置きながらも、誰よりも釈迦の教えの本質的なことを理解していました。

しかし、維摩の際立って個性的な性格は多くの人に苦手意識を植え付け、一筋縄ではいかない手ごわいタイプの人として、煙たがられていました。

 

また、維摩は巧みな弁舌(べんぜつ)によって人を―煙にまくような態度を取ることから、周囲からは「維摩はとても扱いづらい人間」だと思われていました。

 

こうしてみると、維摩経とは、何ともエキセントリックな性格をもったお坊さんですね。

 

お経なのに釈迦は脇役

「維摩経」はお経であるといいました。しかし、「維摩経」には、肝心のお釈迦さま(ブッダ)はあまり登場しません。

むしろ、釈迦は可哀想な役どころとして描かれます。

「維摩経」の冒頭では、「維摩が病気で寝込んでしまったことを聞きつけた釈迦が、弟子たちに維摩のお見舞いに行くように依頼する」シーンから始まります。

 

 

釈迦「維摩が体調悪くて、ここの所、寝込んでいるらしい。弟子たちよ、どうか維摩の元にお見舞いに行ってきてくれませんか?」

一番弟子「えー、維摩さんの所に行くんですか。前回の問答でコテンパンにやられちゃったんですよー。行きたくないです」

二番弟子「ぼく、維摩さんと相性悪いんですよね。あの人、理屈っぽいからさ~。」

三番弟子「勘弁して下さいよ。維摩さんと来たら、全然手加減しないんだから。」

四番弟子「まじっすか。オレ無理っす。」

五番弟子「(。´-д-)。… ZZZzzz(狸寝入り)」

十番弟子「すいません、今日はちょっと他の予定があって…」

 

何と釈迦は、当てにしていた10人の弟子たち全員から断られてしまうのです。

 

 

 

 

 

 

ここまでくると、「釈迦が自分で維摩のお見舞いに行けよ!」とか思ってしまいますが、実は維摩の見舞いに行く事には大きな意味があるのです。

 

釈迦は弟子の誰かに、この体験をさせたかったのです。

 

 

最後に釈迦が行き着いたのは、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)でした。文殊菩薩とは、智慧(ちえ)をつかさどる仏様です。

 

 

 

 

釈迦「文殊菩薩や、助けておくれ。誰も維摩のところにお見舞いに行ってくれないの。あなたは優秀だから大丈夫よ。」

 

文殊「十人弟子は何やってんだよ!(怒)。仕方ないなー、あんまり気のりしないけど、僕ちん行きます。」

 

釈迦「そうこなくっちゃ! ありがとー、文殊。」

 

十人弟子「え、文殊が行くの、行っちゃうの? それは凄い問答が見られそうだ。 皆でついていこう!」

 

 

 

というわけで、十人弟子たちは、あれほど頑なに維摩の元へお見舞いに行くのを拒んでいたくせに、いざ文殊菩薩が行くと決まったら、興味津々になって全員でついていくことにしました。

 

文殊菩薩を先頭にした一向は、ゾロゾロと維摩の自宅に向かって歩き始めます。

 

維摩は超能力を持っているため、文殊菩薩たちがやってくるのをいち早く察知しました。

 

そこで、家族のものを全員外出させ、家の中の家具をすべて片づけさせました。

 

そこに文殊菩薩ら一向が到着します。

 

維摩の自宅で問答を行う文殊菩薩

文殊:「維摩さま、最近体調が悪いそうですね、どうされたのですか。」

維摩「多くの悩める民を救っていたら、自分の体がダウンしちゃって寝込んでしまったのですよ」

という感じで、彼らの問答はスタートしていきます。

 

維摩は文殊菩薩の質問に対してストレートに答えず、仏教の大切な教えについて、相手を試すような対応をします。

 

また、仏教を真の教えに導くための仮手段として「たとえ話」や「レトリック」を用います。

 

これを方便(ほうべん)いいますが、維摩の方便は非常に難解なのです。

だから、釈迦の弟子たちはみんな、見舞いに行くのを拒んでいたのです。

 

 

維摩経の真髄は「空」の概念

維摩と文殊菩薩との対話が一番盛り上がるのは、維摩と文殊菩薩が「空(くう)」の概念について語る場面です。

 

大乗仏教では、この世はすべて「空」だとしています。

 

「空」とは、すべてを包摂する概念です。

「有」も「無」も「空」に含まれます。

 

 

 

大乗仏教(だいじょうぶっきょう)では、存在というものに実態はなく、すべては要素の集合に過ぎないとしています。

 

要素が集合して何かの存在が形作られますが、要素がバラバラになれば、また別の存在になります。

 

なんだか抽象的でよくわからない話に聞こえますが、これを私たちの細胞に捉えると、物凄くイメージが沸きやすいです。

 

私たちの細胞は常に入れ替わっています。肝臓や心臓、脳の神経細胞を形成していた分子は、次の瞬間には代謝されてバラバラになります。そして、また絶え間なく作り続けられます。

細胞がわずかな時間の間に合成と分解を繰り返している様は、まさに、細胞が集結して組織を形成すると共に、ある存在を支えていた要素が瞬時に離散になったりするとに他なりません。

 

細胞はマクロな視点から見れば、常にそこに存在していますが、ミクロの世界で見ると、絶えず合成と分解を繰り返している混沌の中にあります。

 

すると、自分(細胞)は有るともいえるし、無いともいえる。

 

 

自我という存在は「有」と「無」を両方含んだ「空」だといえるのです。

 

 

この説明では分からない人も多いと思うので、違うたとえで説明してみます。

 

引き続き、私たちに馴染みのある細胞で話を進めます。

 

 

 

細胞をより細かく分けていくと、ミトコンドリアや小胞体、核などに分かれます。

 

核の中には、私たちの遺伝情報が書き込まれているDNAが収納されています。

 

DNAは四つの塩基からできています。

 

さらに、DNAのような分子化合物は素粒子レベルにまで分解することができます。

 

そして、素粒子よりももっとミクロの世界でみると、私たちの体は「情報」でできていることがわかります。

 

或は、量子力学でいう「11次元」の世界にまで行き着くと捉えることもできます。

 

すると、『そもそも自分とは何か』という命題に行き着きます。

 

 

自分の体をどこまでも分けて、分けて、分けていった際に「情報だ」というのに行き着くと、果たして自分という存在が「間違いなくある」ということすら怪しくなります。

 

 

しかし、その一方で、自分という存在が「全くない(無)」ともいいきれません。

 

 

自分という存在は確かにここにあると、自分は認識している。

 

 

これが「空」です。

 

 

どうでしょうか?

 

 

ん~、なかなか難しいですね(^_^;)

 

 

 

こうした「空」の概念を支えているのが、仏教における「縁起の思想」です。

 

縁起の思想

縁起とはすべての事柄は「関係性の中に成り立っている」という思想です。

 

縁起と空の思想を説明するのに、ここでもたとえ話を使って説明してみます。

 

ここで、あなたが吉田慶介さんという男性だったとします。

 

私が、吉田さんのことを自己紹介して下さいとお願いしたいとします。

 

すると、吉田さんは自分の学歴や職歴、趣味、家族構成などを説明しはじめると思います。

僕の名前は吉田慶介で、東京都港区出身です。大学は青山学院大学の経済学部を卒業し、その後三菱商事に就職しました。
三菱商事では石油調達のプロジェクトに携わっていて…

家族は妻がと3歳の子供がいます。
週末は家族で公園にピクニックに出かけたり、ららぽーと豊洲で買い物したりします…

僕の好きな車はBMWで特に7シリーズがカッコいいと思っていて…

 

吉田さんの自己紹介の中には、様々なキーワードが出てきました。

東京都港区、青山学院大学、三菱商事….こうした情報をさらに掘り下げていくとどうなるでしょうか。

 

東京都港区というのは、東京の中央部に位置しており、人口は約25万人です。

港区には、六本木ヒルズやミッドタウンがあります。六本木ヒルズというのは2003年4月に開業した商業施設で、テレビ朝日などが入っています。

六本木ヒルズの事業主は森ビルです。森ビルというのは、もともとは「森不動産」という会社からスタートしており…

 

ここまで読めばわかるように、自分の事について詳しく説明しようとすればするほど、「あらゆる事柄が自分からどんどん遠ざかっていく」ことが分かります。

 

 

これを極限まで繰り返すと、最後には「宇宙」に行き着きます。

 

 

行き着く所までいくと、「私=宇宙」になります。

 

(あー、なんだか安っぽいスピリチュアルになってきましたが、そういう陳腐な話ではありません。)

 

これが「縁起」であり「空」の概念です。

 

 

何世紀にもわたって人々に信仰されてきた「仏教」の真理なのです。

 

 

自分という存在を定義する事柄をついて突き詰めていくと、自分を織りなす世界は宇宙までに広がる…ということは、「日本に暮らしている自分」と「地球の裏側に生息しているアマゾンのカエル」は、繋がっていることがわかります。

 

 

言い換えれば、『自分のことを愛することができるように、他人も自分と同じように愛することができる』と捉えることができます。

 

自分の都合や執着を捨てる

大乗仏教(だいじょうぶっきょう)では、固定化された思考を否定しています。

 

物事に執着することで、煩悩や苦悩が生まれてしまうからです。

 

 

すべては「空」(有も無も含む)であることが分かれば、今目の前に起きている事を、より中層度の高い世界から俯瞰することができます。

 

自分の都合で作り上げてしまったフィルターを通して物事を認識してしまうことで生じる、様々な雑念に惑わされることもなくなるのです。

 

自分(自我)というものが「空」に過ぎないと分かれば、この世の悲しみや苦労など、自分を束縛しているものは全てが「幻想」だと思えるようになります。

 

 

 

 

このようにして、大乗仏教では「空」に身を置くことで、苦悩を滅することができると説いています。

 

 

100de名著 維摩経」を解説した釈徹宗さんは維摩経をこのように紹介しています。

 

古い「自分を解体」し、新たな「自分を構築する」。

 

 

彼の解説する維摩経は大変素晴らしく、ユーモアにあふれた読みやすい文章で書かれているので、誰でも気軽に読むことができます。

 

 

しかも繰り返しますが、この本はたったの500円です。

 

 

維摩経を読むと、心がふっと軽くなります。

 

是非読んでみて下さい。