こんにちは
高野です。

前回のメルマガでは、

福岡先生の簡単なプロフィールについてご紹介しました。

分子生物学者というプロの科学者でありながら、
多方面にわたって活躍されているので
本当に引き出しの多い先生なのです。

趣味や出演番組、監修、書評や科学文献など
すべてを列挙しようと思ったらいくつ紙面があっても足りないくらいです。

このメルマガを読んで下さっている方の中にはきっと

「あ~!!フェルメールの人だったのか。」とか

「子供が見ているEテレの監修してるんだ」とか

「動的平衡って福岡先生が提唱したんだ」など

思った人がいると思います。

科学者として、この事の成り立ちを「科学」の視点で、
論理的に立証する以外の表現方法は認められない世界にいる方です。

でも、正直言うと、こういう立場にある人の書籍は往々にして一般人には理解が難しい場合が多いです。

栄養療法を実践している方なら誰しもが痛感していると思いますが、生化学や分子生物学の教科書って難解で無機質ですよね。

本格的で専門的な書籍であるほど、表現も硬いし、
ページをめくっただけで圧倒されるような雰囲気があります。

科学の世界では、自分が行っている研究内容を社会に示し、
同じ業界の身内に対して研究内容の進捗を提示したり、
解明した謎を披露したり、技術や発見の優先権を主張することが必須です。

通常は、学術誌や専門誌という媒体が大きな役割を果たすのですが、
一般社会で生活する我々が触れる機会はありません。

山中伸弥がiPS細胞でノーベル医学・生理学賞を受賞したとか
中村修二が青色LED製品化の特許侵害争いにもめげず、開発から20年経ってようやく2014年にノーベル物理学賞を貰ったなどという、大々的なニュースになってから初めて「科学」の話題に意識を向けるようになるのが常です。

STAP細胞騒動の時に有名になった「理研(理化学研究所)」も、
当初は、日本の科学技術を推進する一大機関というよりは、
「ふえるわかめちゃん」を製造・販売してる会社だと思っていた人の方が多かったかもしれません。

福岡先生もこうした人たちと同じ、研究者のプロですから、
ご自身の研究(細胞膜の動態や狂牛病 プリオン説など)成果を示す「アウトプット」は常に難解な学術論文がその着地点になります。

福岡先生は長年、分子生物学や生化学の研究に従事されてこられ
論文の中にはネイチャーに掲載されたものもあります。

しかし、福岡先生は分子生物学というミクロな専門分野を極めると同時に、生命科学をもっと高い次元から感じ取り、純粋な「不思議さ」や「美しさ」として受け止めています。

そしてそこで感じとったことを抽象度の高い、包容力のある文体で読者のために発信してくれています。

彼の人間性や知的好奇心、自然に対する畏敬の念を形作っているのは幼少期のエピソードです。

福岡先生は小さい時は昆虫オタクでした。

一人で近所の公園や空き地、野山に出かけては
綺麗な蝶々やカミキリムシなどを追いかけていた昆虫少年でした。

自宅にあった生き物図鑑は「昆虫」の巻だけが何度もめくられてボロボロに擦り切れ、内向的だった性格を心配してご両親が買い与えてくれた顕微鏡で、色んな虫や植物を観察したそうです。

友達も少ない方だったので、学校が終わると地元の図書館に通い、
閉館ぎりぎりまで沢山の本を読んで過ごすこともしょっちゅうでした。

春にはアオスジアゲハやミイロタテハを追い求めて元気に走り回り
秋には茂みに生えた木々の葉の裏に蛹を見つけ、
蛹が蝶々へと劇的な変化を遂げる様子を観察する。

自然はこんなに劇的な変化を遂げるのに常にやわらかく、可変的で、神秘的なのだろうと、福岡少年はすっかり生き物の虜になってしまったのです。

福岡先生が阿川佐和子さんと一緒に出版した対談本に
センス・オブ・ワンダー」という書籍があります。

画像の説明


1962年に著書『沈黙の春』という書籍を出し
農薬や化学物質による環境汚染に警鐘を鳴らしたレイチェル・カーソンという女性科学者へのオマージュとして書かれた対談本であり、本書では下記のような引用がなされています。


子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。

残念なことに、わたしたちの多くは大人になる前に澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。

もしもわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない<センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目をみはる感性>を授けてほしいとたのむでしょう。

この感性は、やがて大人になるとやってくる怠慢と幻滅、わたしたちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する、かわらぬ解毒剤になるのです。


福岡先生は生命科学をもっと高次元の現象として捉えているのと同時に
自然に対して人間がもっと謙虚にならなくてはいけないと説いています。

「科学」とは、今までになかった全く新しい存在をヒトが発見・創造したということではなく、太古の昔から先人たちが感覚的に気がついていたことを、解像度を上げて「再証明」したに過ぎないと。

自然の偉大さ美しさ、時には残酷さをも含めて、そのあり様を記述するには「言葉」というアウトプット以外の方法は存在せず、「言葉」は「物語」を紡ぐための大切な道具であると述べられています。

私の大好きなキーワードである
「遺伝子よ自由であれ!」や「動的平衡」という概念は
すべて「言葉」として表現されたからこそ私たちがハカセの考えを理解することができるのです。

そしてすべての「言葉」にはそれを支える「物語」が存在します。

「物語」に深く共感し、自身のこととして置き換えてみることで更に深いレベルで考えることができたり、新しい発想や問いが生まれたりするのです。

福岡ハカセの本を読むと大きな安心感に包まれます。

優しい語り口と絶妙な文体が織りなす文面が読んでいて心地いいというのもありますが、それだけではありません。

行間から溢れる「非言語化」のコンテキストから、色んなメッセージを貰うことができるんです。

そこには何の束縛も非難も不安もありません。

自由に生きていていいんだと思えて、心と身体の苦痛が除かれて楽になります。

次回は、何故私が福岡作品を愛読しているのかについて書きたいと思っていて、心が自由であることが、全身の健康や安堵感に強烈な作用をもたらしている事を中心に書いていきたいなと考えています。

良かったら次の配信も読んでみて下さいね。

追伸:

心の自由さについて爆笑問題の大田光がなるほどと思うような文章を寄せていましたので、ご紹介したいと思います。

はじめに 爆問学問のすすめ 太田光

言葉とは煩わしいものである。思考するのに、言葉を使わなければならない時、とてももどかしい思いをする。

言葉に比べ、心のなんと自由なことか。
言葉にすることは心を区切る作業だ。

一つの感情を言葉にした時、その言葉に収まり切れないどれほどの感情が失われるのだろう。

デジタル時計が、1時1分1秒を表示した瞬間、1時1分2秒との間にある無限の時間を我々の認識が失うのと同じように、言葉と言葉の間に存在する無限の心を我々が失っているのではないかと思う。

「楽しい」という一言で十分な感情などあるのだろうか?

「悲しい」と一言で表現できる悲しみなどあるだろうか?

ヘレンケラーが「ウォーター」と発した瞬間。

一つの世界が広がったのと同時に、一つの世界を失ったのではないかと私は考えてしまう。

それでも人間は、言葉の世界を愛さずにはいられない。

人間は動物として備わった感覚を失う危険を冒したとしても、言葉を使って生きる方を選んだ。

私もそうだ。

言葉は思考を制限するが、その一方で言葉は思考の幅を広げることを知っているからだ。

言葉を発し、言葉を受け入れることによって人間の思考の世界はどこまでも広がっていく。

我々は言葉を尽くせば尽くすほど、思考の力が増していくことを知っている。

…現実の世界にいきている人間は、奇跡のようなことなど、そう起こるもんじゃないと思っている。

しかし、縄文時代に生きていた人間の中で、誰がこの現代の人間の生活を想像できただろうか。

巨大なエネルギーを使い、現代の都市を造り、世界中と通信を結び、生命を誕生させる。

今、目の前にある現実のどれをとっても、奇跡と言えないものはない。

我々の住む世界は奇跡の世界だ。

…さて、大学教授がそのテレビに出るというのはどういうことか。

テレビというのは、不思議なもので、それに出ることによって知名度も上がれば、ステイタスになるといった面もあるのだが、大学教授といったある種元々それ自体がステイタスであるような職業の人々にとっては、テレビ出演はそのステイタスを失う危険性を孕んでいる。

「あいつは、テレビに出演するような大学教授だ」と。

…この番組に出演する人々は、皆、安全地帯から飛び出し、その権威から降りる覚悟が少なからず必要なはずだ。

…またしても私は思う。教授という言葉が限定しているもの。漫才師という言葉げ限定しているもの。

それ以外の世界がどれほど大きいか。

私は漫才師という言葉を愛おしく感じるが、それと同時に、漫才師という言葉がどれほど私を不自由にしていることか。

「漫才師のくせに」「漫才師はお笑いだけやってろ」と、どれほど言われたことだろう。

言葉は我々の思考を本当に限定する。

しかしその限定された世界を突破するのも、やっぱり言葉だ。
私はこの番組に出てくれる人々と言葉を尽くしたい。

…心は、本当に自由である。

行こうと思えば何処へだって行ける。
飛ぼうとする意思さえあれば、我々の思考に怖いものはない。

NHK 爆笑問題のニッポンの教養