私が福岡作品を初めて手にしたのはもう数年前のことになります。

無味乾燥した内容だと捉えられがちな生物学や生化学のことを、
これほどまでに鮮やかに描写している本に出会い、とても衝撃を受けたのを覚えています。

当時は「臨床分子栄養医学研究会」という学会を手伝い始めたばかりの頃で、理系でもなければ、医学的バックグラウンドを一切持たない私は、すべてを一から勉強する必要性を強く感じていました。

ATPやインスリンといった用語を始め、
遺伝子とDNAとゲノムの違いも良く分かっていなかったので
「自分が何を知らないのか」「何を学ぶべきなのか」を最初に把握しなければ…と少し焦っていた時期でした。

2013年頃の当時、巷には様々な情報が溢れていましたが、
体系化された基礎知識を得るには、栄養素の代謝や機能、細胞の働きについて詳しく書かれた書籍に目を通さなければと思い、医学系の書籍が豊富に置いてある大型の書籍店に向かいました。

分子栄養学や生化学や生物学など、その道のプロが書いた書籍は色々と販売していますが、何せ素人ですから自分にあった書籍の「目利き」ができません。

「誰でも分かる○○」とか「分かりやすい○○」という本が万人に適しているかと言えばそうと言い切れない場合もあります。

肝心な箇所で情報が省略されていたり、
自分の求める情報の粒度とその本が提供してくれる粒度にギャップがあることもあります。

果たして今自分が必要としてる書籍の「レベル感や難易度」がどれほどなのか、どういう構成のものが適しているのか、初心者には識別が難しいものです。

当時、私が最初に購入した「生化学」の本は、とある大学の教授たちが書いたもので、あまり有名ではない出版社から出ているものでした。

書店で見た時にはいいかなと思ったのですが、
いざ勉強し始めてみると、説明の記述が分かりにくい事この上ありません。

分厚いマニュアルの如く、書かれていたのは情報の羅列でしかなく
重要なポイントや伝えたい事柄が何であるのかを掴むことが全くできず、これまで中途半端に得てきた情報とこんがらがって、返って混乱する有り様でした。

初心者としては、記載内容のどこが重要で、どれがそれほど重要でないかの区別がつきません。

TCA回路や糖代謝、タンパク質の消化経路について学ぼうと思いたって専門書を開くと、5分も経たないうちに頭がショートしてしまう状況でした。

そんな時に偶然出会ったのが福岡先生の「動的平衡」でした。

文章を読んで、膵臓から分泌される消化酵素やタンパク質の消化経路の様子が、まるで自分自身が電子顕微鏡を覗いているように、目の前にありありとイメージできたのです。

今まで硬直していた細胞が、目の前で動き始めた瞬間でした。

「汝の食べた物」という短い文脈を通じて具体的なイメージが得られ、何か本質的なものを理解することができたという喜びが湧き上がり、
生化学の専門書を見ても分からなかったものが、動的平衡を読んだら細胞のダイナミズムを肌で感じることができた。

ついさっきまで機能不全に陥っていた受容体が活性化して、
鍵穴に鍵がぴったりとはまったような感覚になった。

これは一体どういう事なんだろう!?

生化学の専門書では理解できなかったものが
動的平衡では細胞が実際に動いている様子が手に取るように分かったのは、文章表現の巧みさ故に…と言ってしまえばチープな表現になりますが、細胞の「ダイナミズム」を伝える「時間軸」を文面に与えたことが大きな要素だと思います。

・インスリンは、すい臓から出る体内ホルモン
・すい臓のランゲルハンス島のβ細胞で作られる
・食後に血糖値が上昇した際にインスリンを分泌することで血糖を一定に保つ

というように、時間軸を分断した「ぶつ切り」の記述ではなく
インスリンが分泌されるという現象に対し
そこに至るまでのプロセス、機能を発揮させる瞬間、
機能を果たした次の瞬間、どんな形態で、どの方向へと動き出すのかという一連のプロセスを、言葉として体現してくれているので
あたかもその細胞の振る舞いを最初から終わりまで見届けているような感覚になれたのです。

この本を読んだことで
曖昧模糊として頭でずっとモヤモヤしていた事柄を
顕在レベルで認知することができ、
漠然としていた疑問への回答やヒントも得ることができたんです。

書籍に出て来る個々のキーワードに反応し、
それが様々な気づきや新たな意味づけとして肉付けされていくプロセスは、学習や成長を感じられる本能的な喜びとなって返ってきますし、そこから新たな疑問や知的好奇心も生まれ、
もっともっと勉強したい、知りたいという気持ちになります。

福岡ハカセの書籍はどうしてこんなに面白いのか
その明確な理由が何なのか、個人的な結論には未だ達していないのですが、
福岡ハカセのことを「科学を詩人の言葉で語れる」と表現する人もいます。

絶妙な文体や独自の生物学的世界観もそうですが
ありふれた生化学の書籍にはない「時間軸」を据えて生命現象を記述するというスタイルが、他の書籍とは一線を画す存在にまで押し上げているのだと思います。

生命の動きそのものに「時間軸」が与えられるからこそ、
細胞が絶えず入れ替わる「動的平衡」の概念を掴みとることができ
「動的平衡」があるからこそ、日々移ろいゆく生命現象を「希望」として見いだせるのです。

cell movement